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増田惠子
ますだ けいこ
出生名 小林啓子
別名 増田恵子
生年月日 1957年9月2日(59歳)
出身地 静岡県静岡市葵区
学歴 常葉高校(現・常葉学園高校)卒業
ジャンル アイドル歌謡曲、バラエティ番組
職業 歌手、女優、タレント
活動期間 1976年 -
アイドル・デュオ「ピンク・レディー」のメンバーのひとり
夫 音響会社「ギルド・ジャパン」の桑木知二社長(2002年6月23日結婚)

元ピンクレディーの増田恵子(58)が22日、カンテレのバラエティー番組「快傑 えみちゃんねる」(後7時)に出演し、NHKの紅白歌合戦を辞退したところ、その後、同局の別の番組に出演するために行くと、楽屋が物置のような部屋に変わったことを明かした。ショックで泣いたという。

 増田はピンクレディー時代の1978年に「レコード大賞をいただいて。普通はそのまま紅白に出るんですけど辞退したんです」と振り返った。事務所が辞退したという。辞退の理由を述べるために「記者会見をやらなくちゃいけなくなって」と増田。「辞退したら大変なことになるっていうのは分かってたんですけど」と当時の心境を語った。

 その後、ピンクレディーは解散。増田はソロデビューし、シンガー・ソングライターの中島みゆきが作った「すずめ」が大ヒットした。NHKから歌番組に「出てください」と依頼があったという。増田が同局に行くと、ふだんあるはずの場所に増田の楽屋がなかった。

 ようやく見つけると、そこは小さい部屋でピアノが1台。増田は「お化粧するところがなかった」と述べた。物置みたいな部屋だったそうで、「びっくりして。まだ若かったのでショックで泣いた。こういうことなんだ。紅白をけるっていうことは」と、しみじみと語った。
 MCの上沼恵美子は「NHKはわだかまりを持っていたんですね」と聞き入った。

http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2016/01/22/0008743770.shtml

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未唯mie
出生名 根本 美鶴代
別名 ミー(ピンク・レディー時代)
MIE(1981年-1997年)
未唯(1998年-2005年)
生年月日 1958年3月9日(58歳)
出身地 静岡県静岡市葵区
学歴 常葉高校卒業
職業 歌手、女優
活動期間 1976年 -
ピンク・レディーのメンバーのひとり
夫 佃淳三(1998年結婚、2004年離婚)

1976年にピンク・レディーとしてデビューした未唯さん。じっくり振り付けの練習ができたのはデビュー曲だけというほど、多忙だった彼女が、その当時を振り返った。

*  *  *
 デビューのきっかけは、ケイ(増田惠子)と二人で出場したオーディション番組、「スター誕生!」です。あのときは、サロペット姿の素朴な格好で、フォークソングを歌って合格しました。
もともと歌って踊る歌手を目指していたのですが、合格するためにあえて静岡の田舎娘ふうにしようと相談して決めたものだったんです。
おかげさまで合格できたのですが、「そのままその路線になっちゃったらやだねぇ」なんて話してたら、最初についた名前は、「白い風船」というフォーク調のものでした(笑)。
だけどその後、私たちのためにレコード会社や雑誌社なども交えた大型プロジェクトチームが結成され、路線は一転、名前も作曲家の都倉俊一先生のアイデアで、「ピンク・レディー」に決まりました。
デビュー曲は、「ペッパー警部」。脚を開いたり閉じたりする独特のステップも注目されましたが、あれが意外に難しくて、ケイはなかなか雰囲気がつかめなかったようです。
デビュー当時は事務所の下宿で一緒に暮らしていたのですが、夜に下宿の部屋でドタバタするわけにもいきませんよね。
「ケイ、こんな感じだったよ!」と、街灯の下、一生懸命練習しました。

じっくり振り付けが練習できたのは、そのデビュー曲だけでした。「UFO」のときは、本番2時間前に覚えたんですよ。とにかく忙しかったですね。
「仮眠を45分」という世界でした。睡眠不足からだと思うのですが、毎日微熱があるような感じで、真夏でも寒くて体が痛かったことを覚えてます。

 移動も大変で、衣装の上に私服を着て電車移動をしたり、渋滞に巻き込まれて車を乗り捨てたり。ご迷惑をかけたと思います(笑)。

 78年には「UFO」で日本レコード大賞をいただきました。そのとき司会の高橋圭三さんが言ってくださった言葉に、すごく感激しました。
「いつでも笑みをたたえ、そして、全力投球で歌いましたこの二人、そのつつましさ、優しさというものは、まさに現代の天使だろう」って。
高橋さんは、私たち自身のがんばりを理解してくださったのです。
それまでのつらさが全部吹き飛ぶようで、受賞よりも、この言葉のほうが嬉しかった気がします。
ピンク・レディーでの活動を通して思い出深い曲は、やっぱりデビュー曲の「ペッパー警部」、そして、アメリカでも活動をしていた79年にリリースした、「マンデー・モナリザ・クラブ」です。
「二人が本当にやりたかった曲を、そろそろ作ってあげようじゃないか」と阿久悠先生がおっしゃられて、都倉俊一先生が作曲してくださったディスコ調の曲です。
その後、ソロ活動と並行して、ピンク・レディーは何度か再結成を繰り返し、2010年に、「解散やめ!」宣言をして、継続した活動を続けています。ケイと二人で衣装を着てステージに立つと、スイッチが切り替わり、自然とピンク・レディーになれます。時間を超えちゃいますね。
https://dot.asahi.com/wa/2016092100280.html

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まんだ ひさこ
萬田 久子
別名義 万田 久子(読み同じ)
生年月日 1958年4月13日(58歳)
出生地 大阪府
大阪府立港高等学校、帝塚山短期大学卒業
身長 167 cm
体重47kg
B83、W59、H87(1981年)
血液型 B型
職業 女優
ジャンル 映画・テレビドラマ・CM
活動期間 1980年 -
夫 なし(リンク・セオリー・ジャパンの社長兼CEO、ファーストリテイリンググループ上席執行役員の佐々木力と事実婚、死別)
オフィス萬田所属

 女優の萬田久子(58)が1日、都内で行われたアンジェリーナ・ジョリー・ピット監督映画『白い帽子の女』(公開中)トークショーに出席し、自身の恋愛観について語った。

 萬田は自身を「恋愛経験豊富なほう」といい、「恋愛は一生していたい。相手がいないと恋愛できないけど、常に好きな人がいてときめいていたい。でも、なかなか出会いが…。相性もありますし、気分もあるので自分が恋愛モードになった時に出会うのがいいでしょうね」と話した。

 また、事実婚関係にあり、2011年8月にスキルス性胃がんのため亡くなったアパレル会社社長・佐々木力さん(享年60)についても言及。「30年一緒にいたけど、出会った時の情熱や感情を継続するのは難しい。でも、尊敬や情に変わったりして続けてこられた」と回想。さらに「亡くなってから『もっと愛しておけばよかった』と思った。恋愛の仕方が変わってきている。昔は愛されたかったけど、(現在は)なるべく一生懸命人を愛そうとしている」と心境の変化を明かした。
http://www.oricon.co.jp/news/2079260/full/

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