こまつ みどり
小松 みどり
本名 大野緑
生年月日 1949年9月5日(67歳)
出生地 東京都
血液型 B型
職業 歌手、女優
家族
姉・五月みどり(女優)
兄・西城正明(プロボウラー)
甥・西川哲(五月みどりの長男。プロゴルファー)
所属事務所 小松企画
1970~1980年代の日本映画界で異彩を放った「日活(にっかつ)ロマンポルノ」は、誕生から45周年を迎え、今年11月には“新作”が公開される。再ブーム到来を前に、かつての話題作の名場面を振り返る。
〈媚薬の入った薬草が炊かれるなか、豊満な乳房を自ら揉みしだき、男に「抱いて」とせがむ女。男に激しく突き上げられると、「あっあっ」と喘ぎ声をあげ、「男がほしいの」といいながら恍惚の表情を浮かべる--〉
女優・五月みどりの妹で、歌手として活躍していた小松みどりが36歳当時に主演し、大きな話題を呼んだ日活ロマンポルノの一作、『小松みどりの好きぼくろ』(1985年)の一場面だ。監督を務めた山本晋也氏が撮影当時を振り返る。
「彼女はこの作品に出演するまで、ヌードはおろか、映画に出たことすらなかった。その彼女を、僕が『あなたの魅力を必ず引き出します』と口説いて出演を快諾してもらったんです」
映画製作・配給会社の日活(1978~1997年は「にっかつ」)がロマンポルノをスタートさせたのは1971年11月のこと。1960年代にも、路地裏の小さな映画館でピンク映画は上映されていたが、日活は多額の製作費を投じ、作品としてのクオリティに差をつけた。
1988年に製作を打ち切るまでに世に送り出された作品は実に約1100本。その中でも多くのファンの印象に残った名作を秘蔵エピソードとともに振り返っていく。
『小松みどりの好きぼくろ』で小松が演じたのは、新興宗教の教祖の娘・紫雨子だった。父が亡くなった後の教団では、後を継いだ理事長が媚薬を使って女性信者たちを性的支配していた。その毒牙にかかった紫雨子は冒頭シーンのように男性信者に溺れてしまう……。
同作品で小松は惜しげもなく熟した裸体を披露する。山本監督の印象に残っているのは、小松が相手役となる男性俳優を選んだときのことだ。
「小松が“相手役の男性はどんな人?”と聞いてきたので、5人を候補に選んで写真を持っていきました。彼女、食い入るように写真を見つめていましたよ。だから俳優は芝居の上手い下手ではなく、あくまでも彼女の好みを優先して決めました」
小松本人は当時の心境をこう振り返る。
「オファーがあったのはちょうど離婚したばかりの時期で、もう一度芸能界でやり直すなら文字通り“裸一貫”でやろうと覚悟を決め、思い切って挑戦しました。
爽やかなタイプの方を相手に選んだんですけど、それでもクランクイン直後のお風呂で脱ぐシーンは恥ずかしかったです。熱海の旅館を借り切って撮影したんですが、周りのスタッフは服を着ていて、私だけが裸なんですから。ただ、次第にスタッフの真剣さが伝わってきて、迷いが自然と吹っ切れました。
カラミのシーンは撮影前に練習ができないので、とにかく無我夢中。ロマンポルノでは濡れ場の喘ぎ声は後からスタジオで吹き込みます。とにかく気持ちを込めて息を吐くことを繰り返していたら、酸欠になって、頭がクラクラしたのを覚えています(笑い)」
そんな小松のプロ根性に、山本氏は舌を巻いたという。
「夜のロケになると、けっこう冷え込む季節の撮影でした。寒いと乳房に鳥肌が立ったりして美しく撮れない。だから僕はよく女優に『直前に風呂に入って体を温めておくように』と指示していたのですが、小松は誰にいわれるでもなく、本番直前までおっぱいをストーブの前に突き出して温めていた。どうすれば自分の裸を美しく見せられるかを真剣に考えてくれていたんでしょう」
他の現場では、いざ女優が脱ぐと肌にブラジャーやパンティのゴムの跡がついていて、撮影にならないことも珍しくなかったという。そのため山本氏は「撮影前日は下着着用禁止」と指示していたというが、小松にはその必要はなく、下着の線がついていたことは一度もなかった。
小松のロマンポルノへの出演はこの1作品だけだったが、魂のこもった演技は観る者を驚かせた。
http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20160512/enn1605121911019-n1.htm
http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20160512/enn1605121911019-n2.htm